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レイニイデイ



  きみと初めて会ったのは、土砂降りの最中の公園だったね。

 夏の積乱雲は時折物凄い雨を降らせる。その時の雨は「まるでバケツをひっくり返したような」という形容詞がぴったりなほどに強くて、わたしは思いがけず足止めを食らう事になった。いつもなら、急いでいるときは雨程度では足止めされないのだけれど、その時ばかりはどうしようもなかった。まあ急いでいるとは言え、誰と会うという用事でも無かったから、走るのを諦めて、公園の遊具――いったい、あれは何と呼称するのだろう?かくれんぼに子供がよく使う、かまくらのようなドームのようなそれだ――の中で、少し時間を置くことにした。そう決めたのは本当に偶然。きみに出会ったのは、その時だった。

 あの瞬間は、いまでも覚えている。私は、きみを見た瞬間に、

「……先客が居たんだ」

 そんなことを一言呟いて、隅に目を遣った。そこに居たのは、箱座りをしている薄汚れたサビ猫一匹。人が聞いたら笑いそうだけど、わたしはそれを視界に入れた瞬間に世界が変わった気がした。……そう、そのサビ猫が、きみだったんだよ。

 きみは不機嫌そうな瞳でわたしを見た。それからあくびをして、立ちあがって伸びをして、わたしの足もとへとのろのろ歩いてきた。わたしが中腰で固まっていると、きみは頭を脛になすりつけて、小さく鳴いた。だからわたしは、引き寄せられるようにしゃがみこんで、きみの頭をそっと撫でた。目を細めて喉を鳴らすきみに、きっとその時、わたしは恋をしたんだ。

 ねえ。……きみは知らないだろうけど、きみの頭は驚くほど暖かかったから、わたしは思わず泣きそうになったんだよ。

 きっと長く野良猫をやっていたんだろう。きみの毛は油で汚れていた。だからすぐに手はべとべとになったのだけれど、そんなことはどうでもよかった。わたしはひたすら、小さな頭を撫でて、遠い雷のように鳴る喉を撫でて、美しいラインを描く背中を撫でていた。きみは逃げもせずに、好き放題に動くわたしの手を受け容れていた。随分と人慣れしていたから、きみにも昔は、大切な「誰か」が居たのかもしれないね。もしかしたら、の話だけれど。

 確か十分ほどきみと触れあっていたけれど、雨は一向に止む気配を見せなかった。むしろ強まっていて、流れ込んでくる雨で地面は泥になりかけていた。どうしようかなあと少し考えて、ふと思いついたことを実行した。わたしは自分の着ていた上着を脱ぐと、地面にそのまま敷いたんだ。その上にきみを乗せれば、きみは汚れないと思ったから。それに、もう上着なんて要らないとその時は思っていたしね。

 だけどきみは嫌がって乗らず、代わりにわたしの目をじっと見ていた。しょうがないからわたしがその上に座ると、きみは当然のようにわたしの膝に乗った。
 きみの身体は熱いほどに暖かくて、重くて、確かな鼓動が伝わってきて――何よりも、愛おしく感じた。目頭が熱くなるような、そんな切なさを覚えた。それは忘れられない体温に似ていた。

 きみは、あの時わたしの事情を知っていたんだろうか。いや、人間同士のしがらみなんて知らないよね。でもなんとなく、きみは解っているような気がした。わたしがあの日、死のうとしていたってこと。そんなのきっと妄想なんだろうけど。

 わたしにはとても愛した人が居て、けれどその人はわたしを愛していなかった。ううん、最初はもしかしたら、愛してくれていたのかもしれない。だけどその愛情は、いつからか消えてしまっていた。いや、消えたんじゃない。わたしではない、別の女性に注がれていた。

 なにが悪かったんだろう、と何度考えただろうか。数えきれないほど思考を巡らせた。わたしの愛が重すぎたんだ、とか、わたしに魅力がなかったからだ、とか。こんなにも考えるなら、原因を叩きつけてから行ってほしかったとさえ思った。だって、あなたは何も言わずに居なくなってしまったから。

 いつも笑えと心がけてはいたけれど、本当のところわたしは限界だった。頭の中でぐるぐる回っているものが重すぎて、ゆるやかにわたしの思考を潰していた。
 だから、わたしは楽になろうとしていたんだ。あの土砂降りの日、高いところから飛び降りて、思考を潰す悪意を頭蓋骨からぶちまけてしまおうと思っていた。そうすればきっと、楽になれるだろうから、って。

誰からも好きになってもらえないわたしとも、誰も好きになってくれない世界とも、さよなら出来ると考えていた。

――だけどわたしはきみに出会って、きみの温もりに触れた。

 きみにとっては、餌をくれそうな人間にしか見えてなかったのかもしれない。あるいはけだるい雨の日の、暇つぶしの相手だったのかもしれない。
 真意はどうであれ、わたしは、きみが頭を擦り付けて膝に乗ってきたとき、初めて「愛された」と感じられたんだよ。この世界が、わたしに生きていてもいいんだと言ってくれたように思えた。きみの身体は、やさしい温もりで出来ていた。

 雨の中できみをひたすら撫でていた。きみは少し迷惑そうに目を細めて、それでもいつの間にか、わたしの膝の上で眠っていたね。
 きみの温もりはやさしくわたしの身体に沁み渡って、いつの間にか悪意を全部融かしてくれた。あれだけ死にたかったのに、きみと生きてみたいと思えた。

 時間にして、三十分くらいだった筈だ。雨はとても長く降り続いたように感じていたけれど、それでもいつの間にか止んでいた。公園に出来た水たまりに夏の陽射しが綺麗に反射して、まるで違う世界のようだった。

 その眩しさにか、きみはふと目を覚まして、わたしの膝から降りた。そのまま遊具の出口に向かって歩くと、振り返って「にゃあ」と鳴いた。行ってしまうんだと思って、わたしはぼうっと見つめていたけれど、きみがもう一度鳴いた時に、それが「一緒に来て」という意味だと悟った。立ちあがって遊具を出ると、きみはわたしの足もとにすり寄って、喉を鳴らして甘えた。

――そして、わたしは雨上がりの空の下を歩きだした。


 あれから、随分と時が経ったね。

 この数年間、想い出を省みることはしなかったけれど、あまりにも雨が強いから思い出してしまった。窓の外をちらりと見て、白く煙るような豪雨に溜息をひとつ吐く。いまだ、止まない。あの時によく似た雨だった。
 それでもあの時と違うのは、わたしの頭がさっぱりとしているということ。わたしが愛したこと、愛されなかったことを受け容れたということ。――わたしが、現在愛されているということ。

 「にゃあ」

 足元で声がした。見遣ると、きみの蜂蜜色の瞳がわたしを見つめていた。そのまま足に頭を擦り付けてくる。……膝の上に乗せろ、というお達し。
「はいはい」と返事をして、ベッドに座った。飛び乗って来るきみは、あの時よりも重い。きみもわたしと暮らしてから、初めて会った時よりも幸せになれたんだろうか?
 聞いてみたって返事はないけれど、きみの寝顔が安らかだから、そう信じることにしておく。

 あの土砂降りの中できみと出会ったのが偶然だったのか、それともそうではなかったのか。真意は神様と世界しか知らない。
 けれど、必然だったらいいと心から願った。

 雨は強い。夏の積乱雲は、時折物凄い雨を降らせる。あの時は世界に嫌われたのかと思ったけれど、違った。わたしはきっと、世界に愛されている。
 雨の音は屋内だとやさしく、ゆるやかな眠気が襲ってきた。きみは相変わらずすやすやと眠っている。わたしも、少し眠ろう。
 ベッドに上体を倒すと、すぐに暗闇が揺らいだ。

「おやすみなさい」

 返事の代わりに、尻尾が動いたのを感じた。
 


(20110806)


三題メーカー使いました↓
No.519 長谷川さんへ「偶然」「土砂降り」「真意」で明るいお話を書いてね。
http://shindanmaker.com/50113 #lovenobel

佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |

夏と冬の話

  その世界に四季というものはなく、ひとびとは自分が深層で抱く感情によく似た季節をその身に纏っていました。
 春は心やさしいけれどそれはあまりにやさしすぎで、夏は明るいけれども照りつける太陽のように傲慢で、秋はいつも世界をうらさびしく思っているし、冬は全てに嫉妬していつも心を閉じていました。こういった性質を持っていたものですから、まったくもって彼らは分かり合いにくかったのです。
ですから、基本的に、自分とは違う季節を持った人とはかかわりを持ちませんでした。春と秋などはお互いのさびしさを埋められるので仲がよかったのですけれど、特に厚着をしなければならない冬が、一番ほかの季節と分かり合えないのでした。

 さて、あるところに夏を抱いた少年と冬を抱いた娘がいました。夏を抱く彼は冬を抱いたその子の手の冷たさを慮り、どうにかそれを温めてあげられないかと常々思っていました。冬を抱く子は、夏の明るさにいつも惹かれていました。冬は空気が透き通っているけれども、やはり日差しでさえも冷たいものだったからです。
 ふたりがお互いを想う気持ちは、時が遷ろうにつれてどんどんと深くなっていました。彼らの周囲は「相反する季節は分かり合えない」と何度も止めたのですが、ある日とうとう夏の子は、冬の子を連れて駆け落ちしてしまいました。

 夏と冬が二人きりになったのは初めてでした。暖かくも寒くもない森の中で、夏は汗を滲ませていましたし冬はがくがくと震えていました。
 夏の子は彼女をきっと救えると思っていました。自分が背負うこの太陽で、彼女の世界の雪を溶かせると信じていたのです。
 冬もまた、夏に救われることを望んでいました。彼女の世界はいつも暗く、寒く、雪のように静かで深い嫉妬にまみれていました。それを彼の太陽が溶かしてくれたら――と、と彼女は願いました。

 ――けれど。

 夏の子が手を伸ばし、冬の子を抱きしめた瞬間、彼らは気が付いてしまいました。
 冬の冷気は露出している少年の肌を凍らせ、夏の熱気はダッフルコートに包まれた娘の肌を焼きました。
 少年はその痛みで娘が抱く嫉妬の深さを知り、それを溶かせるほどの温度が自分にはないと気がつきました。また、娘は夏の匂いを鼻先に感じた刹那、きっとこれを覚えてしまえば、さらに自分の嫉妬は深くなってしまうだろうと理解しました。
 夏と冬――彼らの温度は違いすぎていたのです。

 ふたりは、相反する季節が分かり合えない理由を、あまりにも切ないかたちで知りました。
 性質の違いとは世界の違いにも等しく、その違いを埋められるだけのものを、幼い二人はまだ持っていなかったのです。

「帰ろう」と少年は言いました。その瞳は、夕立の如く涙に濡れていました。
「うん」と娘はうなずきました。その瞳は、冬の夜のようにまっくらでした。

 決して交わることなく、ただ押し黙って帰ってゆくふたりの背中はあまりにも小さく、憐れでした。


佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

影武者

  大統領の乗った飛行機を撃墜しようとするテロ組織がいるとの情報が入った。なんでも自爆テロをするらしかった。もちろん止めなければならないが、テロ組織の居場所が掴めず、まだ行動が出来ない。
 大統領の側近は、万全を期すために、ふだん大統領が影武者として使っている男を呼び、言った。

「大統領の飛行機を撃墜しようとする人間がいるという情報が入った。そこで、君にはまた囮になってもらいたい。今回の仕事は危険なので、報酬は弾むし前払いにしよう。金銭ではなく現物でも構わない。この仕事を降りる以外なら何でも叶えよう。やってくれるね」

 それは依頼というよりも命令であった。影武者の男は少し考えてから答えた。

「ならば、私の影武者を用意して頂きたいと思います」
佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

純愛。最愛の人へ。

 「僕は君が好きでした。本当に大好きでした。笑った時に頬に浮かぶ笑窪も、白魚のような美しい指も清流のように流れる髪も、そのどれもを愛していました。勿論内面だってきちんと見ていましたよ。帰り途、偶然見つけた子猫に1時間以上もかまけていた愛らしさ、寝る前は大事なぬいぐるみに話しかける子供らしさ。だけど、その奔放かつ純粋な心の裏側に数えきれない苦しみがあることも知っていました。陰のある君の伏し目がちな笑顔が、僕は何よりも好きでした。3年間、君だけのことを思い続けていました。君だけのことを見続けていました。どんな手を使ってでも、いつかは僕だけのものにしたかった。愛しています。愛しています。君は僕の世界でした」

ギシッ。

「だけど、君にはもうすでに、誰よりも愛している人が居たのですね。自分を犠牲にしてまでも、守りたいと思える人が。全てを捧げても共に歩みたいと思える人が。僕は、僕は全て知っています。君が彼を愛し、手を繋ぎ、抱きしめ、キスしたことを。勿論それが悪い事なわけはありません。僕は何よりも君を愛しているのだから、君の幸せを祝福しなければなりません。世界の幸せは、僕の幸せなのだから。そうです。そうです。そうなのです。君のことを、僕は、愛してるのですから」

ギシッ。ギシッ。

「……。けれど、僕には耐えられなかった。君が誰かの物になってしまうことが。僕の傍から離れて行ってしまうだなんて、考えたくもなかった。僕は悩みました。何度も、君の恋人を殺そうとしました。ああ、君を殺すという選択肢は勿論ありませんでしたから安心してください。だって君は、僕の世界なんですから。君が死んでは、僕の世界も滅びてしまいます。まあ、それは置いておいて。とにかく僕は君の恋人が憎かった。憎くて憎くて仕方がなかった。だけど、気づいたんです」

ギシッ。ギシッ。ギシッ。

「きっと、僕は」

ガタッ。コツ、コツ、コツ。

「僕は、夢を見ていたんです。長い長い夢を」

トンッ。

「君への思いは、僕にとってとても美しい夢でした。君を本当に好きだったとき、君と話せて、君を笑わせることが出来てとても幸せでした。僕は、とてもきれいな夢を見ていたんです。だけど、夢にはいつか終わりが来る。僕も、もう夢から目覚めなければ」

ゴトッ。

「結婚式は、明日でしたか。おめでとうございます。僕はきっと泣いてしまうからいけないけれど、いや、そもそも君が僕を招待してくれるかも怪しいのですが、とにかく僕は行けないので先に祝辞を述べさせていただきます」

ポタッ、ポタッ。

「君が次に目を覚ます時、ここであったことは忘れているでしょう。もし忘れられなくても、愛しい人と歩む時がそれを忘れさせてくれる筈です。だから、今だけは、今だけは僕を見ていてください。お願いします。お願いします。お願いします。お願いします」

ギシッ。

「……。ああ、ありがとう、ありがとう。ありがとうございます。本当に君を好きになれてよかった。誰よりも、何よりも。君のことが、大好きでした」

ギィ。

「さようなら」


ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ

「ああああああああ愛していたんだああああああああ誰もよりも愛していたんだああああああああああ僕はっ僕はああああああああああああああああああああ」

ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴトッバシャッ
佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

真夏の夜

 「     」って。

それを言われたときに、生まれてきたことをただ後悔して後悔して後悔して。ああ、何も考えたくない。ただ視界は真っ白で、頭の中はキィンと鳴る。さびしさは鳴る、と語った作家は誰だったか。いや、恐らくこれはそういう音ではないのだろう。きっとさびしさは、もう少し綺麗な音だから。

不意にガタンガタンと何かが迫る音。耳鳴りを阻害する。時速何キロで走っているのだろうか。その鉄の塊は眩しくきらめきながらゆっくりと走る。二十メートル、十メートル、数メートル。鉄塊が迫るにつれ、私はそれが放つ光に惹かれていく。夏の虫のようだと自嘲して、あれに巻き込まれたら痛いだろうかと考えた。そう思ったせつな、鼻先を鉄塊が過ぎた。飛び込み損ねたことを悔やむと共に、やはり虫は光に近づきすぎたとて死ねないのだと識った。

踏みきりをすぎ坂を越え、気づけば頭の中の音は消えていた。鉄塊が過ぎるとき、音も共に連れ去ったのだろうか。それとも、それを流したのは都会の夏にしては涼しい夜風だろうか。いづれにせよ、私の中で鳴った衝動は影をひそめた。

歯車は回り、針は時を刻む。この冷たい風が吹き終わるときまでは、世界は何を気にすることもなく巡るんだろう。でもそれでいい。事を知りすぎてはきっと眠れないから。知らない、気づかない、気にしない。その方がずっと、幸せだ。

ぐらり。目眩。世界が回る。速くなった鼓動が生を刻む。痛いほど。背中が、熱い?

振り向く。夜にきらめく銀。熱い背中。黒に紛れてそれは消える。何が起きたか理解しようとして、やめた。そう、さっきも言ったけれど。



知りすぎては、きっと眠れないから。



(暗溶)
佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

アンハッピー・ニューイヤー

 「大体なんで毎年毎年明けましておめでとうだのハッピーニューイヤーなどと言わなければならないのですか。理不尽です」

年越し蕎麦を啜りながら 彼女 突然そんなことを言って怒り始めました。
いやいや だって新しい年の初めですよ? 祝いたくもなるじゃないですか。

「何を言ってるんです。そもそも ハッピーニューイヤーとか言ったところで その年がいい一年になったことなんて本当にありましたか? 本当に幸せでしたか?」

うっ そ それはまあ 確かに微妙な一年の方が多かったですけど。

「ほら そうでしょう。大体一年での幸福と不幸の比率なんてよくて4:6 悪ければ2:8ですよ? それなのに私達は毎年ハッピーニューイヤーだの明けましておめでとうだの 言っていて空しくないですか」

ま まあ確かに空しいかもしれませんが いいじゃないですか 一年の初めくらい希望を持っても。

「そうやって在りもしない希望に飼い殺されたまま また無駄な一年を過ごすんですか?」

ど どうしたんですか 今日は。何だって そんなに機嫌が悪いんですか。僕が何かしましたか?

「いえ 坂上さんは別に何もしてないですけど。ただムカついたんです。このまま今年もくだらない事を言ってくだらない一年を過ごすんだろうなあって思ったら」

そういうと 彼女 右手に持った箸を折れるんじゃないかってくらい強く丼に叩きつけ すっくと立ち上がりました。

「よし 決めた。私 今年はハッピーニューイヤーじゃなくて アンハッピーニューイヤーって言います! それで年が明けて浮かれている人を不幸のどんぞこに突き落としてやるのです。始まりが最悪だったら 何が起きてもまあ今年はこんなもんか って思えますもんね!」

そ そうですか。どうぞお好きに。

謎のポジティブは 結構な迫力を持っていて 僕が冷や汗を流しながら答えると 彼女 満足そうに肯いて座り また蕎麦を啜り始めました。ああもう こうして黙っていたら可愛いのに。黒いさらさらした長髪とか 透き通るような白い肌とか 切れ長の釣り目とか。あの白魚のような指がベッドの上ではあんなことに……。

とか くだらないことを考えていたら それを察したのか彼女 「何ですか 坂上さんいやらしいこと考えてるんですか。……触ったら怒りますよ」とかわいらしいことを言ってきました。ま お楽しみは後で ですね。

ちらりと時計を見遣れば 時刻は23時48分。あと12分で年明け ですかあ。今年も呆気なかったですね。

「あ 本当ですね。12分かあ。早く蕎麦食べなきゃ」

ちょっと食べるの遅くないですか?

「そんなことないですよう」

そう苦笑すると 彼女 慌てて蕎麦を啜り始めました。



そして 気づけば10分も経ち 今年も残すところあと2分。
どうにかギリギリ蕎麦を啜り終えた彼女は 安心したように丼を下げ 台所で何か少しごそごそとやった後に そっと僕の傍に戻ってきて ちょこんと座りこみました。

「あっとにっふんー」

そんな歌を口ずさむ彼女がかわいらしくて 思わず撫でようとしたところで今年も残り1分。
第九の荘厳なメロディがテレビから流れる中 僕 ぼうっと彼女の事を眺めていました。そして。

「ごー よん さん に いち……」

気の抜けるような彼女の声が 2009年最後のカウントを紡ぎ そして あっさりと年が明けました。
先程の会話 すっかり忘れた僕が「あけまして おめでとう」と彼女に言おうとした瞬間 何故か喉元に鈍い衝撃。

その後走った鋭い痛みに 何事かと彼女を見てみれば 彼女の左手には鈍く煌めく包丁。その切先は 僕の喉に吸い込まれておりました。

「というわけで坂上さん アンハッピーニュ−イヤー!」

え そういうことかよ。というか 今年もまた殺人オチかよ。年初めだっていうのに そろそろマンネリ化してきたぞ。

抗議しようにも穴の開いた僕の喉 言葉の代わりにプヒュープヒューと空気を空しく吐き出すだけで。
結局 そのまま喉の痛みに意識が遠くなり 僕は倒れたのでした。



……で その後。
手始めに僕を刺した彼女 そのまま外に出て 「アンハッピーニューイヤー!」と連呼しながら手当たり次第に初詣に来ていた人達とかを刺殺して 見事に新年の幸福ムードを不幸に塗り替えたそうな。

でもその代わり それが今年の大災厄となったのか 僕の住む町のあたりだけ 結構2010年は可もなく不可もなく過ごせたようです。


ん。あ 僕ですか。
あのあと 一度意識が戻りまして でも致命傷だし さんざ悶え苦しみまして。

まあ結果的に 2010年は5分ほどしか堪能出来ず 大災厄に巻き込まれた被害者Aみたいな感じになったんですが 彼女が幸せならそれで構いません。ねえ?

というわけで 明けまして残念でした。
今年もよろしくお願いいたします。

佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

メリークリスマス

 街で男が散弾銃を乱射した。いや、その散弾のほぼ全てが、街を歩いていた不幸なカップル達に当たったのだから、厳密には乱射したとは言えないかもしれない。
何はともあれ男は哀れにも逃げ遅れた25組目、50人の男女を殺戮している所で警察に逮捕された。




取り調べ室で、疲れた顔をした刑事は全く悪びれる様子のない男に聞いた。

「……なぜ、こんなことをしたんだ」

男は答えた。

「いえ、ね。山で趣味の猟をしていただけなんですよ。でも趣味というのは目を曇らせるものでして、なんというか、えぇ、山で白い牝鹿に会いましてね。まぁアルビノという奴なんでしょうが、とかく私にはその牝鹿が神様に見えたんです。はい。で、夢中になって追い掛けてたらいつの間にか街に居まして、気づかずに撃ったら流れ弾がね、ゴミど……いやいや、恋人同士の皆様にね、うっかりヒットしてしまいまして。だからこれは殺人じゃなくて事故ですよ、事故。悲しい事故です。あぁ悲しい〜なんて悲しいのか〜」

先程から、ずっとこの調子だ。証言などする気もないのだろう。それとも、本当に動機などないのか。いや、人の行動には必ず理由がある。刑事は歯噛みした。
本来ならば今日は、恋人であり婚約者であるはずの女・智子とのデートを楽しむ筈だったのに。だが、それどころではない。部下まで死んでいるのだ。
初めての恋人を溺愛している刑事は、苛立ちを誤魔化すように咳をすると、男をぐっと睨んだ。はやく、動機を聞き出さねば。だが、それよりも先に部下を失った悔恨が鎌首をもたげた。

「……そうか、事故だと言いたいのか。ピンポイントでカップルだけ狙って、それでも事故だと……。いいか、被害者の中にはなぁっ、俺の部下が居たんだ。少し空回りしがちな奴だったが、いいやつでっ」

「刑事さん」

激昂しかけた刑事を、男の平たい声が止めた。

「……なんだ。何かいう気になったか」

「刑事さんには恋人がいらっしゃいますか」

「何をっ」

「いやあの、それさえ教えて頂ければ正直に自分の罪を認めますので。恋人は、いらっしゃいますか」

何故か、男の乾いた声色に刑事は逆らえなかった。まるで催眠術でもかけられたかのように、刑事はゆっくり口を開いた。

「……いる」

「あぁ、じゃあ幾つかお聞きしてよろしいですか。彼女の身長は157センチくらい?」

「あ、ああ」

「髪は茶色に近い黒で、肌は透き通るような白?」

「ああ」

「好きになった男の名前の、例えばまさるだったらまーくんと呼ぶような癖は?」

「ある」

「そうですかぁ」

幾つかの質問に答え終わってから、刑事ははっと口をつぐむ。自分は何を答えているのだ。こちらが聞く側だと言うのに。

そして、それから刑事は僅かながらの恐怖を抱いた。一体、なぜ、この男は自分の恋人をまるで見てきたように知っているのか……。

が、すぐにその恐怖を振り払い、刑事は口を開いた。

「……質問には答えたぞ。次はお前が」

「あの……刑事さん」

「なんだ」

刑事の言葉は、またも男に遮られる。若干の苛立ちを覚えながらも、刑事はばつの悪そうな顔をした男を促した。

「いやぁ、言いにくいんですが」

「なんだと聞いている」

「彼女の名前って、智子さんですか?」

「……なぜ、それを」

「あぁ、やっぱり……。あの、お伝えするのが心苦しいのですが、智子さん浮気してましたよ。あなた以外の男と、腕を組んで歩いてました」

「なっ、そんな筈はっ」

男の言葉に、刑事は自らの世界が崩れてゆくような気がした。しかし刑事はすぐに自分に言い聞かせる。そんな筈はない、お互いに付き合う経験はこれが初めてなのだ。それに、あの今時にしては珍しい純朴さを持った女が、浮気をする筈は。

だが、そのささやかな自信はやたらと信憑性のある男の声に崩れ去った。

「『智子ぉ、彼氏はいいのかよ?』って聞かれて彼女言ってましたよ。『やっぱ刑事とかださいわよね』って。いやぁ、新しい男の腕に縋りつく智子さんは幸せそうでしたな。きっとこのあとセックスするんだろうなぁと思いましたよ。『どうだっあいつのよりずっと良いだろっ』『あぁっあなたのが一番好きいっ』とかやるんだろうなぁと思ったらもう憎しみしか芽生えませんでしたね。それくらいカップルでした」

「そ……そんな、そんな筈はない。智子とは、結婚も考えてっ」

さっきまでとは一転し、薄い笑みを浮かべた男に刑事は掴みかからんばかりの勢いで叫ぶ。飛び散って手についた唾液の珠を嫌そうに机に擦り付けながら、男は止めの一言を放った。

「あぁ……二人とも、私の前で結婚の約束を交わしましたよ。接吻までしちゃって、絡み合う舌が見えてましたからねえ」

「嘘だああああっ」

刑事が、発狂したように叫ぶ。飛び散る唾液を今度はしっかり避け、男は笑った。

「あぁ、でも大丈夫ですよ」

「嘘だ……嘘だ……智子が……」

「たぶん彼女ら、散弾銃の餌になりましたから」

「智子おおおおおっ」

先程よりも更に平坦になった男の言葉に、刑事は咆哮し掴みかかった。黒い瞳から涙がボタボタと溢れている。刑事は正気をなくしていた。
そんな刑事に肩をがくがくと揺さぶられながら、男はふと気づいたように虚空を見た。

「あっ、白い牝鹿だ。神様だ。ほりゃっ」

「あぎぇっ」

軽い声と共に男は指を刑事の眼窩に突っ込む。奇妙な悲鳴をあげて、刑事は目を押さえながら倒れ込んだ。

「うぁぁあ、智子、智子おおっ」

「いやあ純愛ですねえ。素晴らしい。こんな素敵な恋人を裏切るわけがありませんな。刑事さん、刑事さーん。さっきのはクリスマスジョークですようっ」

にやけたまま、男は目を押さえたまま床でもがく刑事に言う。だが、それは間違いなく聞こえていないだろう。それを気に止める様子もなく、男は伸びをした。


「いやぁ、素晴らしいクリスマスでした。純愛は見られるし、猟も上手く行くし。……おや」

爽やかに独り言を呟く男の目が、何もない筈の空間に何かを捉えた。それは、ライトの光を受け、短い毛並みを大理石のように輝かせる、白い牝鹿。

本来ならばあり得ない筈のその生き物に、しかし男は笑顔で会釈した。

「メリークリスマス」

牝鹿も、小さく会釈を返した。

佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

遺す

 
「例え何も形あるものを遺せなかったとしても ただ僕が居たと云うこと 僕が生きていたと云うことを誰かが いや 君が憶えていてくれるなら 僕の生きた意味も多少は在ったと云うものですよ」

彼 小さく微笑んでそう云うと 僕の頬 痩せこけた指で そっと触れました。

「さよなら は云いたく無いから 君に ありがとうと云って去ろうと思う。君と居られて 楽しかったよ。ありがとう ありがとう」

か細い声。彼の命がゆらり消えそうなのをそこに感じながら 僕 ただ彼に 同じ五文字を呟きました。

色々なことが在ったけれど やっぱり君と居られた時間は尊かったよ。此方こそ ありがとう。

「はは 最期に泣かせる事を 云うなあ。……ああ ありがとう。どうか 僕を 忘れないでくれよ。あり がとう」

切れ切れの言葉 紡ぎ終えて ひゅうっと息を吸うと それを吐く事なく 彼 すっと目を閉じて。
ああ もう逝ってしまったのかい。訊きながら触れた彼の左胸 もう鼓動はしていませんでした。

とうとう 逝ってしまった。

覚悟はしていても 事実として認識すると 何故だか彼との様々な記憶 生きている筈の僕に 走馬灯の如く甦り。

いつも 沢山の人の不満を受け止めていた彼。いつも 笑いながら無茶とも思える様な誰かの願いを叶えていた彼。僕もまた 彼に救われた一人です。
彼は 善意の塊のような男でした。なんで こんな善良な奴が あっさりと病で死なないといけなかったのだろう 記憶と共にそう思うと 涙まで止まりません。

『……もし我が儘を云うなら 僕は死にたくないなあ。いや 不老不死になりたい訳じゃない。肉体が死んだあと 誰かの心の中でひっそりと生きたいよ。うん 僕を憶えていて貰いたいなあ。粛々とさ 少しだけでいいから』

そんなことを言って笑った顔も 勿論憶えていました。

彼の最期の言葉 そしてその記憶 色々なことを僕は確かに握っています。ともすれば 僕は彼の願いを叶えられるのでしょう。

涙を拭い 彼の安らかな死に顔を一瞥。安心してくれよ 僕は 君の事を忘れないからな。


そんなこと思いながら 彼の頬 触れようとした刹那。不意に大きく大地が揺らいで あっと声をあげる間もなく罅が入った壁が崩れ 一際大きな破片が僕の頭を砕き 彼の記憶はおろか 彼の身体も僕の身体も 綺麗に裂けた地面の下 呑み込んだ。


そしてそこには もう何もない。

佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

 夜 二時ごろ。
明日は早いし 早く眠ろうと思いながら 僕 温い蒲団の中でぼんやりしていました。
瞼は重く 思考もうつつ。ああ もう少しで夢の世界だな そう思い 眠りに身を委ねようとしたら ですよ。なにやら ごほごほと咳の音が聞こえて 僕 うっかり目を醒ましてしまいました。
このおっさんくさい咳 間違いなく 父さんだなぁ。全く 咳をするくらいなら煙草なんて止めりゃいい。言っても きかないけど。

眠りを妨げられ 若干の苛立ちを覚えながら 僕 耳栓を入れ直し 部屋の扉も再度閉め また蒲団に潜って眠ろうと うわ また咳してるよ。もう 煩いな。大体 何で一階の音が二階まで聞こえるんだ。おかしいだろ 欠陥住宅め。うわ ちょっと咳し過ぎだよ ヘビースモーカーめ。


結局 何度耳栓を入れ直そうと扉を閉めようと 階下の父の咳は聞こえるので 仕方なく 僕 真冬だというのに扇風機をつけて (ちなみにこの扇風機 夏に僕の彼女を巻き込みミンチにした曰く付きの品であります) 扇風機が回る音で自分を誤魔化しながら寝た次第であります。



で 次の日。


結局あまり眠れず 眠い目を擦りながら降りてみれば 珍しく起きている父の姿。よし 昨日の文句を言ってやろう。

父さん 父さん。あの 何とも云い難いんですが 咳の音量 もう少し下げてくれないかなあ。僕 昨日 あなたの咳が煩くて眠れなかった。耳栓して ついでに扇風機までつけたんですよ。ほら 見てくださいこの隈。酷いでしょう。


「お前の顔がひどいのはいつものことだ 馬鹿息子。大体俺は昨日 咳なんて全然してないぞ。十二時には下で寝てたしなあ。聞こえたの 何時だよ」

二時ですよ。……えっ じゃあ僕が聞いた咳って何ですか。

「幽霊じゃないのか」

幽霊なんていませんよ。
それより ほんとに十二時には寝てたんですか。信じ難いなあ。

「本当だ。ほら この2ショットチャットのログを見てみろ。十二時で止まってるだろ」

あ 本当だ。でもそれ 誇れませんよ。これ 母さんに云っておきますね。

「いや それは止めろ。まあいい 父さん ちょっとユミちゃんとデート……いや パチンコに行ってくるから お前も二度寝するなよ」

云い直した後も前も最低です 父さん。母さんに全部……あ 行きやがった。あの駄目親父め。あいつの息子で居ることが 本当に恥ずかしい。


しかし 父さんじゃないとすれば あの咳は誰だったんだろう。隣の家だろうか 聞こえないこともないけど 流石に耳栓してりゃ聞こえないからなあ。ああ 気になる。

「ごほごほ」

そう こんな感じのおっさんくさい咳。
幽霊だったら とんだ迷惑だよな。まだ 何も云わないで見られている方が マシだ。

「ごほっ……うぇえ」

いやしかし 何で咳の音って不快なんだろう。こんな音 いらないよ。早く 音抜きの技術が開発されりゃいいのに。

「ごほっ」

ああしかしさっきから咳が煩いなあ。全く これじゃ昨日とおな……あれ?

おかしいな さっき 父は出掛けた筈なのに。そして今 家には僕しか居ない筈なのに。なんで 咳の音がしてるんだ。

「ごほっごほっ」

止まない咳の音の方 押し入れに向けて 恐る 恐る 振り返る。なにもない筈の其処 暗闇が広がっている筈の 押し入れの扉の隙間 何故か 赤く血走った目と ぽってりと太った 誰かの指 覗いて。
佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

うばいうばわれ

かんかん、と金属製の階段を登る音でリズムをとっていれば、いつの間にか屋上に辿り着いていた。
赤錆が僅かに浮き始めた重い扉を、力を込めて開ける。開けた世界は、初めて見るような綺麗な晴天と陽光に覆われていて、なんだか凄く素敵だった。

粉っぽいコンクリートの上を歩いて、あまり高くない緑色のフェンスに指を掛ける。かしゃんと軽い音がして、塗料が指にこびりつく。その色に今年の文化祭を思い出して、懐かしさを覚えた。
あの時は色々なものが輝いて見えたのに、いつの間にかその輝きを忘れた。当然と言えば当然だったのだろう、と思う。だって、私は。

感傷に僅か浸り、それからすぐに気を取り直してフェンスを登る。随分と老朽化しているフェンスだったから、登る前に崩れて落ちたらどうしようかと思った。でもその思いをきっと神様は酌んでくれたんだろう。何事もなく、私はフェンスの外へと到着した。

障害物なしに見渡す街並みは綺麗だった。青い空を突っ切るように飛ぶ鳥とか、浮かぶ雲とか、そしてそれらを背にして聳え立つ灰色のビルですら――何もかも美しく思える。
どうして人は、喪う直前になってから全ての美しさを知るのだろう。今更気づいても、もう遅いと言うのに――。


後ろ手に掴んでいたフェンスを離す。一瞬よろめいて、それでも私はそこに立つ。
14階建ての廃ビルの上。飛び降りるのはまだ、今じゃない。腕時計を見る。17時56分。あと、4分。

視線を腕時計から下に移す。雨に濡れて、灰色から黒に近づいた道路がある。誰もいない。あと3分。

ああ、思い返してみれば結構良い人生だったと思う。悪くはなかった。辛すぎもしないのにやたらと幸せだった。
でも、その幸せに甘えすぎた。溺れすぎた。私は傲慢だった。あと2分。

幸せになるためなら他人の不幸もいとわなかった。後輩先輩友達先生両親、関わった全ての人を私は道具として見ていた。私が幸せであるための、私が満足するための玩具であり、私が不幸にならないための駒だった。酷いことをした。酷いことを言った。心配と無償の愛は特に素晴らしい道具だった。終わったあとで後悔して自己嫌悪して、同じことを繰り返した。あと1分。

その日々が「あの人」のせいで崩壊して、少しだけ安堵した。もう繰り返さないと心から思った。同時に、自分が独りと知った。当たり前だと解った。好かれている筈がなかった。納得した。でも。


「……やっぱり、ひとりは寂しいよ」


掠れた喉から呟きが洩れる。


 結局、最後の最後。壊れかけた自分が優先したのはエゴだった。取り返したかった。夢を見ていたかった。幻想の中で生きていければよかった。その日々は奴が奪ったのだと嘆いた。返してと喚いた。帰って来ないと知った。
だから、帰らないものを奪われたなら同じように帰らないものを奪おうと思った。

――18時ぴったり。

薄暗くなった道路に目を凝らせば、私に呼び出されたことに訝しげな顔をしているであろうあいつがそこに居た。あぁ、良かった。ちゃんと定時に来てくれた。時間を守ると言うのは素晴らしいことだ。

さぁ、いこう。大事なものを返してもらいに――。


ひゅうっと強く息を吸い込むと、掴み直していたフェンスをまた離す。
そして私は、奴の元を目掛けて飛んだ。

徐々に近づく地面で、呆気に取られたように座り込む奴の表情は最期に見るものに相応しいと思えた。

滑稽なほど口を開けて、奴は私を見る。視る。観る。その頭上に向けて飛び込みながら、緩やかに私の意識は暗溶する。

さいご、意識が消える刹那。
ぐしゃりと骨肉が潰れまざりあう音がした、ような気がした。

佐々木 | 短編 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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